休憩を挟みまして、今度は桂氏と川俣氏、二人きりの対談となりました。
そして、いよいよ「セルフ・ドキュメント」の話になりました。桂氏から川俣氏の作品が、「アーカイブ(archive・もともとは公記録保管所、公文書、または公文書の保管所、履歴などを意味し、記録を保管しておく場所のこと。桂氏は情報を蓄えていく行為そのもののことを指して話しているようである。)」を最初から意識して作っているのではないか、という問いかけがありました。
それに対して、川俣氏は、作品を作るという事自体が、ドキュメント化、あるいは「自分を対象化」していくということである、とした上で、最初から「アーカイブ」や「セルフ・ドキュメント」を意識しているというわけではなく、結果的にそうなってきたと答えられています。
「アーカイブ」や「セルフ・ドキュメント」は意識的なものだけれども、作品を作っている間は、崇高(sublimeという用語が使われました)を感じるような瞬間があり、それは意識的なものとはかなり違うとのこと。またそのような崇高な感覚は、たとえば、絵を描いている時であるならば、描いていること自体を忘れてしまう瞬間でもあるとのことでした。
聞いていると、その崇高な感覚は、「セルフ・ドキュメント」化するのとは相反するようにも思えるので、それは全く逆のものなのかとも思えます。ただ、桂氏のいう「セルフ・ドキュメント」というのは、また少し違うようです。話が複雑になってきました。ただその答えが明確にわからないところがお二人の対談の魅力であるように思えてきました。
そして、お二人の対談は思わぬ方向に向かいます。今回のサブタイトル「川俣正はなんでもない」について、川俣氏の方から、桂氏がそのようなタイトルをつけようと思った意図について質問が向けられました。(今回のサブタイトルは桂氏が積極的に考えています。最初は「もう古い」だったのです・・それを知った会場の参加者から笑いが起こりました)。
その質問に対する答えのなかで、桂氏が、「人の積み重ねてきた意志がつぶされてしまうことがある」という言葉を口にしたとき、川俣氏は今年3月にあった東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)のことについて、桂氏に聞き始めました。川俣氏は桂氏が被災地に行っていたことを知っていましたので、今回のサブタイトルである、「なんでもない」は現地の様子と関係あるのではないかという鋭いご指摘でした。また、人の意志の積み重ねが、「無化」あるいは「超えられた」ということなのか、と続けて質問されました。そこから話の流れは、一気に東日本大震災の話にシフトしていきます。
当日の模様はこちらからご覧いただけます。
→ https://youtu.be/aueA9Bhck0Q