原発事故のことを議論することももちろんですが、この問題に関しては、「もともとあった意志はなんなのか、どんな意志があってあれが作られたのか」を議論することも必要なようです。
しかし残念ながら、「そのことを議論する哲学の土壌がこの国にはない」と桂氏は述べられました。川俣氏は、「その意識をもたせなかったセンサーシップ」が気になるとのこと。
根底にある日米関係。アート、テクノロジーを持ち込んだアメリカ。何でも市場化することで世界をリードしてきたアメリカ。そして、その市場化の結果として原発もあったのではないか、今回の事故は、そのように忘れていた思考を思い出すきっかけになったのではないか、など、お二人の対談はどんどんヒートアップしていきます。
日本には哲学を考える土壌がないと言いつつも、「何でも着地点が商品というところが見えなくなってきている」「我慢があきらめになって、それが日常になってしまう」などビシビシとクリティカルな表現が飛び出すあたりがお二人の対談の面白さなのかなと思います。アーティストである川俣氏にとっては、最近の状況を「センスがだるい、センスが鈍麻していく雰囲気が嫌になってしまう。ものをつくる人にとって、つくりづらい状況」と語っています。丁度観客としていらしていた高山明さんにもお声がかかり、高山さんもそのご意見に同意されていました。
実はこのあたりから話題が多岐に渡り、まとめていくのが困難になってきました。ですが、あえて「セルフ・ドキュメント」や「アーカイブ」に話の焦点を合わせるとすると、桂氏は今回の震災で、物を集めることは極めて権力的なものだと再認識し、「本当に物だけ集めていていいの?」という気になった、とのこと。また、物質を集めることはパワーゲームになってしまう、そのことに関する文章も書いているが、「自分が考えていることに自信がなくなってしまった」とも仰っていました。
それに対して、川俣氏の「喪失感がアーカイブをさせるのではないか」「アーカイブで耐えることもできるのではないか」という言葉が印象的でした。
震災発生当初、「国難」という言葉が政府関係者からよく聞かれましたが、その言葉があまり聞かれなくなった昨今、桂氏が言うように、「どういう意志がより公共性が高いのか」本気で議論する必要があるのかもしれません。そのなかで「セルフ・ドキュメント」はどのような位置にあるのか、そのあたりを聞きたい、と思っていたところで時間が来てしまいました。最後はメシアニズムなど、次に繋がるキーワードが出たところでしたが、今回は残念ながらに終わりの時間となりました。次回以降も楽しみになりました。お二人ともおつかれさまでした!また次回もよろしくお願いいたします。
また、ご参加くださった皆様、ここまで読んでくださった方、おつかれさまでした。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
続編は、お忙しいお二人のご都合によりますが、10月頃にできればいいなと考えております。