さいくりブログ

臨床トーク_002 報告 vol.1

遅くなりましたが、先日3月5日に西條クリニックで行われた「 東京の終わりのはじまり~『東京計画1960』からだいたい50年」のご報告を致します。

臨床トーク_001に引き続き、今回も川俣、桂両氏をお迎えしてのトークイベントとなりました。お二人が会うのは前回の臨床トーク以来とのこと。お忙しいお二人をマッチングできることは幸運なことに思えます。

さて、今回は、表題にあります通り、テーマを「東京」に絞ってお話していただきました。前回の最後は震災の話になり、「メシアニズム」や「脱出」など、終末をイメージさせるような言葉が飛び出していましたので、今回はその流れを組んで、「終わりの・・」というところから始まっています。

まずは、桂氏から、1961年に発案された丹下健三の東京の都市計画について言及していくという旨のお話がありました。戦後一番有名な東京の都市計画について、「もちあげるつもりはない」と添えられた上で、この都市計画が作られるまでの経緯から今回のトークが始まりました。

都市計画が作られるのは震災や戦争を契機としているとのことですが、関東大震災が起きた1923年(大正12年)頃、日本では、すでに、モダンな住宅のあり方を展示する「家庭博覧会」や住宅専門の機関誌「住宅」などに代表されるような和洋折衷の生活様式への関心が高まっていた、とのこと。そして、10万5千人余りの死亡あるいは行方不明者を出した関東大震災の後、早々に復興計画を立案した「後藤新平」についてのお話がありました。
後藤新平(1857?1929)は、1923年9月1日の関東大震災後、復興計画を立案した「帝都復興院」の総裁でした。昭和通りや永代通りなどの幹線道路、歩道や公園、鉄筋コンクリートの小学校、同潤会アパートの整備などに携わった人物です。医師出身で衛生行政に詳しく、都市建設のエキスパートだったそうです。
彼がリーダーとなって復興や東京の都市計画が作られたわけですが、19世紀中葉のフランスでナポレオン3世治下のオスマンパリ市長が行ったいわゆる「パリ大改造」を参考にしたと言われています。また、建築の専門家として、耐震構造を考え、同じく大きな被害を出した東日本大震災後の現代においても、再評価されているということでした。

後藤新平の後、日本の近代建築運動をリードしていった石本喜久治・前川國男らの名前が出まして、その後、丹下健三の話が出ました。1960年代、第二次世界大戦で荒廃した日本が復興し、高度経済成長期へ移行した時代、日本で発祥し世界へと広まった建築運動「メタボリズム」を提唱したのがこの方です。「メタボリズム」については後ほどお二人も言及しますが、以下のような意味を持ちます。

ー「メタボリズム」という言葉が生物学用語で「新陳代謝」を意味しているように、“生き物が環境にすばやく適応しながら次々と姿を変え増殖していくのと同様に、建築や都市も有機的にデザインされるべきである”というもの(参照 http://www.qetic.jp/?p=72196)ー

話はその後、生活改善運動に移ります。桂氏が強調しているのは、これらの時代を通して、生活とはこうあるべきという規範ができたという点です。プロレタリア階級の創設であり、マルクス主義の影響でもあるとのこと。生活改善運動は、国家総動員法に利用された経緯がありますが、震災と戦争の20年間で20万?30万人がなくなった後の都市計画と、現在の東北や東京に問われていることは何なのか、という話に向かっていきます。桂氏いわく、今は、「東京」のことが問われている、とのこと。今回の東日本大震災で気づかされた、東京が福島に背負わせてきたもの、そのあたりの話につながるところで・・・次回に続きます。

当日の模様はこちらからご覧いただけます。
https://youtu.be/yZRqzyHxrDI
https://youtu.be/2XI8MaBgJ5s