引き続き、臨床トークのご報告です。「消費」に続いて、もう一つ重要なキーワードが出てきます。
前回のトークの最後に、次回のテーマはエクソダス(脱出)の話をすることになっていました。近いうちに首都圏に直下型地震が起こる確率が高いと言われている状況ですので、まさしくそのことについても考え始めなくてはいけません。
桂氏から、もし直下型の大地震があった場合、川俣氏はまず何を思うかという問いかけがあり、川俣氏は「桂くんの顔を」と答えるという、軽妙なやりとりが見られました。話はすぐに、新たな震災は避けられないものであるし、ある種の覚悟が必要なのではないか、という緊迫感のある言葉に変わりました。しかし、実際のところ、首都圏に住む人々の大半はそのことに鈍感であるようにも見受けられます。
桂氏は、東京の今の状況だと「自分の人生はどうするのか」といった問いの立て方が非常に難しいと認識している、とのこと。ただ、「泥船に乗ったつもりで」や「覚悟はいいですか」というような問いがないこと自体にも疑問を感じていると語られています。そこで川俣氏は、(本来は)「問い」はあるはずだけれど、その「問い」も「消費」しているのではないか?と、やはり「消費のモデル」としての東京に立ち返って考え始めます。具体的には、震度4の地震が起こった時、通常であれば驚いてしまうが、「ここの人はそれぐらいでは驚かない、そのこと自体に驚いてしまう」とおっしゃっていました。「東京はどう壊れるのか」とさえ思っている川俣氏の危機感はかなり強いようですが、桂氏は「意外とまだ終わらない」と返答しています。たぶん「一週間でコンビニが開くと思う。」と半ば笑いながらおっしゃっています(そのように考える人が大勢だとおっしゃりたいのだと感じました)。
放射性物質は80年の半減期(注:核種によって、もっと長いものから短いものまで、様々あります)と言われると、長すぎて「まあいいか」という気持ちになっていて、食べ物には確実に混ざってしまっているこの東京の状況で、「いかに生きていくべきか」という問いが立てにくい状況になっているのは確かです。一体、どういう問いを立てると皆が聞いてくれるのかと桂氏は嘆くように発言されています。全てのことが「なかったかのように」動いてしまい、震災も原発事故も消費してしまっているんじゃないだろうかと心配されていました。
そして、この「問いが立てられないと」という状況は、普段、芸術大学で表現の世界に身をおいておられるお二人にとって、本当に深刻な問題として捉えられているようです。「問いが立てられない」という状況では、本当の意味での同時代性が表現できない、というのです。昨年の3月から東京で「東京インプログレス」という隅田川の周辺で作品作りを続けられていた(しっかりと震災前、震災後の時期に重なっています)川俣氏も、この東京の状況で問いを立てるのが難しく、作品を作るのが大変、とおっしゃっています。
震災後から行われている表現として、歌手であれば「現地に行って歌いに行く」ことや、デザイナーであれば、「ペットボトルを再利用して使えるものを作る」というような表現がありますが、こういった「日本を救いましょう」という直接的なものだけではない、「違う表現の仕方」があってもいいと川俣氏はおっしゃっています。「この時代に何を表現していくかということが大事になる」、ともおっしゃっていました。さらに桂氏は、「問い(自体)が表現になるはず」と続けられています。休憩を挟んだ後は、この「問い」と「表現」の関わりについて、さらに盛り上がっていくことになります。
当日の模様はこちらからご覧いただけます。
→ https://youtu.be/yZRqzyHxrDI
→ https://youtu.be/2XI8MaBgJ5s