休憩を挟みまして、いよいよ後半になります。まず、後半が始まる前に、会場の方々からこれまでのトークに関する質問をお聞きし、川俣氏、桂氏に答えていただきました。
質問1:3月11日からの数日間、お二人はどういう行動をとっていたのか。
東京で、2010年9月から続いているアート・プロジェクト「東京インプログレス」の作業をしていたという川俣氏は、延々と同じ映像が流れているマスメディアを見ながら、「“情報”に飢えていた」とおっしゃっています。確かに、テレビではどこのチャネルを回しても、同じような中継しかありませんでしたが、そんな中で頼りにしていたのは、メディアアーティストであり、東京芸術大学大学院で教授を勤めている藤幡正樹(※)氏のTwitterの情報だったそうです。
※ 藤幡氏は桂氏、川俣氏とともに、東京芸術大学先端芸術表現科で勤めておられました。
© Masahiro Hasunuma
桂氏の方は、震災当日、六本木にいらして、翌日には仙台で伊東豊雄氏とトークイベントをする予定だったのですが、当然のことながら、予定されていたトークイベントは中止となったそうです。そして、前回も話されていたとおり、福島原発の事故を知り、「これがあった、忘れていた」という思いと、「政府を批判しても正確なことはわからない」という無力感に襲われていたそうです。ただ、その後、3月30日に仙台に行く機会を作り、実際に現場におもむいた際には、「限られた資源を皆で消費している」ということが印象深かったそうです。
ここで川俣氏は再び、震災に関わる表現について言及し始めます。「(アーティストによる)福島展などをやって、目的化しやすい状況ではあるが、表現というのは、そういうものではない。」と再び切り出しました。桂氏は、「自分が住んでいるところがダメかもしれない」というのは、これまで経験したことがない状況であることを付け加えた上で、モダンでは「定住が当たり前」であり、その状況が危うくなっているときに、「どういう問いが立てられて、表現ができるのか、僕はわからなくなっている」と語られていました。
さらに、西條クリニックの設計をして下さった建築家の会田友朗氏からも質問がありました。会田氏は、アーティストが現場に入り、「手が動かない、どう表現していいかわからない。」と困惑している樣を目にした、という体験について語った上で、「作品として結実するのは随分先になるかもしれない。」と考えているそうです。そして、川俣氏が「コンテクスト(※)」とは別のところで作品を作り、かつアートの分野で評価されてきたことを踏まえた上で、質問をされています。
※「コンテクスト(context)」は文脈という意味ですので、今回の場合、美術の歴史の流れのことを指しています。「美術」という概念自体が西洋から持ち込まれたものですから、今、日本にある「美術」も当然、西洋の「美術」の影響を強く受けており、むしろ、「美術」というよりは「アート」という言葉の方が浸透している印象もあります。
質問2:東日本大震災前も、東京は“コンテクスト-レス”だったかもしれないが、震災後は違う意味で“コンテクスト-レス”になっているのかな、という話の流れになっていると思うが、お二人はどのように考えているか。
この質問には、まず桂氏が答えます。「コンテクスト」がないのではなくて、「コンテクスト」を皆、「あまり信じていない」のではないか、と。桂氏は、アーティストが「コンテクスト」のことをあまり考えず、震災前と震災後で全く変わらないことをしている状況に疑問を呈していました。そして、日本で美術をやっている人たちは「仲が良すぎる」ことにも大いに意見があるようです。ここで、「あんまり仲のいい友だちがいないので(仲が良すぎるということ自体が)わからない」という川俣氏に対して、「川俣さん友達いないもんね」と桂氏が軽妙に返すやりとりも見られましたが、桂氏は真剣です。東京都現代美術館で、昨年の10月末から行われている「ブルームバーグ・パヴィリオン・プロジェクト(※)」について言及されています。
※「ブルームバーグ・パヴィリオン・プロジェクト」は、東京都現代美術館敷地内に建てられたパヴィリオンを舞台に、一年間に渡って東京在住の若手アーティストの個展や公募展、パフォーマンス・イベントを開催していくプロジェクトです。パヴィリオンのデザインは、国内外で注目を集める若手建築家、平田晃久氏。(参照 http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/125/1)
桂氏には、そこで展示している若手アーティストが「建築家が“わざわざ建てた”モノの中に、何故、展示するのか」という点について、あまり考えずに、「与えられた条件のなか、普段自分が考えていることをただやっている」ように見えるそうです。桂氏が「コンテクストのことをあまり考えていない」具体的な事例として、「ブルームバーグ・パヴィリオン・プロジェクト」をあげたのは、与えられた<場所>とアーティスト自身が作った<作品>との、“繊細なバランス”について考えることは、モダン・アートの分野では当たり前の「コンテクスト」である、という前提に立っているものと思われます(※)。あくまでも推測ではありますが…。
※ 100年近く前ではありますが、マルセル・デュシャンの代表的な作品である「泉」は、モダンアートの幕開けとなるような「コンテクスト」を生み出しました。スロベニア出身の思想家スラヴォイ・ジジェクは、“芸術が成立するかどうかを決めるのは、芸術対象の質ではなく、ただその対象の収まる<場所>だけであり、それゆえ然るべき<場所>に置かれさえすれば、何であろうと、たとえ糞であろうと、芸術作品で「あり」うるということを証明するかのような”作品であったと語っています。
作り手であるアーティスト同士が、お互いを褒めあっている様子についても言及し、日本の美術界を、「ミニマル・コミュニティ」と評する場面もみられました。川俣氏は、マーケットもプライオリティもないところで何故展示するのか、という疑問をもっており、もっと大きな市場のあるところ(欧米ということになりますでしょうか)で発表すべき、ともおっしゃっていました。アートに深く携わっているお二人だからこそ、アーティストには志を高く持って欲しい、という厳しさとともに、愛情も同時に感じられるお話だったと思います。
そして再び、会田氏の質問に立ち返りつつ、「問い」という言葉が出てきます。アーティストが「問い」の必要性を感じていないのではないか、と川俣氏は問題提起します。さらに「問い」がなければ、「コンテポラリー・アート」ではない、と断言されています。ドイツでは政治的なものにコミットメントしないものは作品じゃない、とまで言われるそうです。桂氏も「今、この時代」を表さなければ、「表現にならない」とおっしゃり、作品の要素として、「同時代性」が見えてこなければいけないと続けています。ここまでトークを拝聴してきて、アーティストに限らず、誰にとっても「問い」を立てることが、「今、この時代」を生きていくためにはとても大切な事であるように思えます。そして、その「問い」を立てるためには、当然、「コンテクスト」について考えることが必要不可欠なのでしょう。
次回はさらに、震災後に私達が考えるべきことについて掘り下げていく内容です。臨床トーク第2弾のご報告は、次回で最後となる予定です。充実したトークだっただけに報告も長丁場となりました(そしてかなり遅れています…)。ここまで読んで下さった方、ありがとうございます。そして余力がありましたら、次回までお付き合いいただけると幸いです。
当日の模様はこちらからご覧いただけます。
→ https://youtu.be/yZRqzyHxrDI
→ https://youtu.be/2XI8MaBgJ5s