さいくりブログ

臨床トーク_002 報告 vol.6

はじめにお詫びしますが、今回で最後と思っていた報告でしたが、まとめてみるとやはり長くなってしまったため、2回に分けさせていただきました。何卒お許しください。

前回の報告では、震災後の表現についての話題から、“コンテクスト”というキーワードを軸に話が進みました。この“コンテクスト”はヨーロッパのアートにおける歴史の流れを指すものでしたが、川俣氏いわく、ドイツなどのヨーロッパ諸国と比べて、アメリカと日本は特別で、「ポリティカル(政治的)なものはほとんどない」とのこと。ただ両国にも違いがあって、アメリカには「アート市場主義(市場の原理が大きく働いたアート界)」ともいえるスタイルがありますが、日本にはそれ(アート市場主義)すらない、とのこと。桂氏もまた、現在の日本の状況を、「“コンテクストレス”を通り越して、“コンテクストフリー”となっている。」と指摘しています。

ここで桂氏から川俣氏に鋭い質問が飛びます。「(川俣氏が)日本で制作をする場合は、あまりポリティカルなものに触れずにいたのではないか」と指摘された川俣氏は、「日本ではポリティカルなものをやっても反応がないし、受け入れる土壌もない」という返答をされています。そして、川俣氏が手がけた「コールマイン田川(※)」というプロジェクトについては、「政治的なものを受け入れる土壌のない日本」でのアクティビティであったにも関わらず、実は「海外に向けて」行なっていたことを明かされています。確かに日本においては、政治的な話をすること自体、(特に若い世代の間では)非日常的なことのように思えます。

※コールマイン田川?1996年に始まり、2006年に終了。かつて炭鉱の町であった福岡県田川市において、石炭産業を通してさまざまな社会問題、「労働者と資本家という社会的ヒエラルキーの成立、ストライキなどの労働運動、都市化による環境問題、公害、外国人労働者の問題や人種差別、労働災害」を見出し、共同作業のなかでこれらの問題を掘り起こす、というプロジェクトであった。
(引用 http://10plus1.jp/review/sugeno4/1.html

前回のVol.5では、政治的なものにコミットしないものは作品ではない、とするドイツの美術教育についての話題が出ていましたが、川俣氏によれば、逆にヨーロッパでは、「ポスター」みたいな作品が多いともいえる、とのこと。つまり、直接的な「問い」があるそうですが、「それはそれでうるさい」と笑みを浮かべながら語られています。桂氏も、芸術にはもうちょっと「隠喩(メタファー)」があってもいいのかもれないと思うこともあるそうですが、やはり、日本の(アーティストの)表現を見ているとそうも言っていられない、とのこと。

桂氏は現在、原発の写真を集めておられ、その中には、アンゼルム・キーファー(※)が買うと言った原子力発電所の写真も含まれているそうです。キーファーは原発を買う、というセンセーショナルな発言をしたことで話題を呼びましたが、実際に買ったわけではなく(法律的に現状では不可能だそうです)、「買う」ということを言っただけでした。ただ、その発言のみで、「消費」そのものが「表現」として成立しているという点を桂氏は評価されています。確かに、政治的な問題にコミットしているだけではなく、今回のトークで何度も出てきている「消費」という人間の行為に鋭く切り込んでいるところが、さすがはコンテポラリーアートの大御所という感じがします。

※戦後ドイツを代表する画家であり、ドイツの歴史、ナチス、大戦、ワーグナー、ギリシャ神話、聖書、カバラなどを題材にした作品を、下地に砂、藁(わら)、鉛などを混ぜた、巨大な作品で知られる。『社会彫刻』という概念を用いて活動した芸術家、ヨーゼフ・ボイスを師事した。

お二人のお話が一旦途切れたところで、当クリニック院長からも質問がありました。院長は、震災後の状況に対して、「覚悟はいいですか」というような「問い」があることは、前半の話(Vol.4参照)でも出てきていましたが、「問い」を「問い」だとも思わない状況が遷延していることこそが問題ではないか、と感じているとのこと。そこで3番目の質問です。

質問3: 「問い」があるかどうかさえ判断できない(乳幼児、幼児などの)若い世代のことを考えた場合、私達大人の「問い」はどのようなものがあるのか。

川俣氏は、2人の小さいお子様をお持ちなので、もちろん(子供の世代については)心配されているそうです。震災の年、2011年8月に生まれた2番目のお子さんがおり、その子の成長に従い、今後、何かを知ることになると語っています。ただ、「自分のなかで、(未来のことを)あまり想定したくない。」ともおっしゃっています。最初のお子様は日本のことを「ジャポン」とおっしゃるそうですが(川俣家はパリ在住ですので)、それを聞いて、「自分が思っている日本と、彼が思っている日本が違うんだ」と実感しており、それは仕方ないことと考えているそうです。

桂氏は、給食を食べる世代のお子様をお持ちなので(関東圏にお住まいです)、切実な問題としてあるとのこと。自分の子供達に対しては、既成の教育を信じずに、どうやって生きたらいいのかを考えてほしいとのこと。その状況を評して「思想のサバイバル」が必要になる、とおっしゃっています。そして、桂氏いわく、「教育というのは、ある種の規範、つまりノーマル(normal)あるいはノーム(norm)の学習である」が、そのノームが機能しなくなった時点で、今の震災後の状況がある、とおっしゃいます。さらに、現在、震災後の政府の対応に不満を感じている方は多いと思われますが、震災後、「不義している人」「社会矛盾を起こしている人」が、実は“ノームの勝者”でもある、ともおっしゃっています。

桂氏いわく、ノームの勝者である勝ち組が正しいときもあったが、それは少なくとも(東日本大震災後のような)非常事態を想定しない、ある種の“イケイケ判断”が蔓延していたことも確か、とのこと。これまでの教育は、問題解決型であり、自分で問題を出して、その問題を解くというものではなかった、ともおっしゃっています。勝ち組は、「目の前の数字を乗り越える」とか、「人から言われてそれを乗り越える」とか、そういった思考や行動には長けていたが、「これからはそうではいけない」と断言されています。

さらに、若い世代は、「僕らと同じ教育を受けているので、さらにノーム(あるいは判断)の幅が狭くなっている」という指摘もされています。桂氏は、大学人として、「一旦その呪縛を解いてほしい」とそれを言い続けるしかない、とおっしゃっています。まさしくそれが「思考のサバイバル」であると川俣氏も指摘され、桂氏も同意されています。それは、自分が食べているものがどこから来るのか、というところでもよいので、(モダンではそういった“素朴さ”は忌み嫌われているところではありますが)、まずは考えることが大事になる、とのこと。そして、川俣氏は、「“社会”が考えないようにさせている」あるいは、「思考停止にさせるような“仕組み”がすでにある」のではないかともおっしゃっています。

桂氏いわく、このような“仕組み”は、戦後、安保闘争、浅間事件など、政治にコミットすることが「反社会的になりすぎていた時代」を経て、日本人が「政治的なことを考えること=反社会的」であると結びつけて考えるようになってから、“考えない癖”ができたのではないかと指摘されています。考えないことの方が、経済合意性があり、考えて異議を唱えると叩かれる、というのが日本の状況なのでしょうか。

こういった状況に、No!を突きつける熱いトークが最後に展開されます。次回こそが最後の報告となります。次回は日本が誇るファンションデザイナー、川久保玲氏のインタビュー記事の話題から始まります。

当日の模様はこちらからご覧いただけます。
https://youtu.be/yZRqzyHxrDI
https://youtu.be/2XI8MaBgJ5s