さいくりブログ

臨床トーク_002 報告 vol.7

いよいよ、最後のご報告です。お二人のお話は、2012年の元旦に朝日新聞に掲載された、川久保玲氏のロングインタビューの話題に移ります。

お二人に、これこそが「問い」だった、と言わしめた川久保玲氏(ファッション・デザイナー)のインタビュー記事の中には、「900円のジーンズが売られていて、そのジーンズがどのように作れるのかを考えないことはおかしい」という話が出てきます。(掲載された内容の一部はこちらをご覧ください。
→参照 http://www.asahi.com/fashion/beauty/TKY201201180360.html

これはVol.3の話にも出てきたユニクロの話とつながりますが、桂氏は、このロングインタビューが「極めて今の生活感覚の本質を突いている」とおっしゃいます(インタビューでは「900円のジーンズ」について考えない「消費」の仕方が批判的に語られています)。ユニクロ的な生活をしている人もたくさんいて、それはそれで構わないが、「どうしてそれが作られているか」というのを考える癖があるかどうかが問題で、そのように考える癖が「トレーニング」だと桂氏は語ります。多くの人がユニクロ、ココイチ(何故かカレーのチェーン店を例に出されています。よく利用されるのでしょうか・・)などのファストファッション、ファストフードを利用しているような状況では、食は「エサ」のようで、衣服は「囚人の配給と一緒」のようになっている、と痛烈に批評すると同時に、「そのこと(ファストな消費の仕方)を楽しんでいる」ことに問題を感じているそうです。

桂氏は、(日本という国全体が)考えないことがノームになっている状況であるがゆえ、「無力感」を感じるし、そのような状況に対して反撃できない、反撃できる強烈な言説がないことを嘆いておられます。そして、ここから都市計画の話になりますが、東京は、「未来形が抱けない。現在形しかない。そして実は、過去形もない。」と切り出します。川俣氏も同意され、東京計画1960に関しても、もともと「作ろう」という発想が少なかったため、(一部は実現されたものの)構想に終わってしまったのではないかとおっしゃっています。桂氏いわく、近代国家というものは、普通、「王を殺して作るもの」だけれど、日本は「王を立てて近代国家を作った」とのこと。その点において、王を倒して市民社会が生まれたヨーロッパと比べようがなく、都市の成り立ちがあまりにも違うそうです。

日本人が考えることを苦手になってきている現状が見えてきたところで、再び、院長からの質問です。
質問4: お二人がそれぞれの世界から「エクソダス(※)」しているから、「思考のサバイバル」ができている、と思うが、そのあたりは二人の脱出の瞬間や、「思考のサバイバルのススメ」があれば聞きたい。
※ エクソダス(脱出)は、トーク第1弾終了時には、第2弾で中心の内容となるはずのキーワードでした。

川俣氏はまずドイツの事例を紹介されています。ドイツでは延々とナチスドイツについて学び、自分たちの負の部分を日常化していこうという姿勢があるそうです。ただ、それが蔓延してしまって、それに対する、批判や批評でもなくなってきている状況もあるそうなのですが、「そういう日常もアリなのかな」と思っている、とのこと。川俣氏にとってエクソダスは、見たくないものを延々と見せることによって、自分が(見たくないと)思っていたものが、どこかで正当化、日常化していることに慣れてしまうこと。それを見た時、それも1つの“エクソダス”の方法だと思った、と語られています。

桂氏はドイツの自虐的な教育も1つありうるし、中国のような反日思想を刷り込むのも1つのトレーニングとおっしゃっています。莫大な数の国民がいる中国では、「国民国家」がある意味で弱く、国民国家としての体裁を整える意味では、反日というわかりやすいテーマで考えることでトレーニングする、という方法もある、とのこと。そして、そのような事例に比べると、日本は「考えるための基盤」が少ないとのこと。そのせいなのか、東日本大震災、福島の問題で何か起きているのに考えないし、東日本大震災や福島のことが、なぜか「もはや他人ごとのようになって」おり、そこは「どうしても抵抗したい」と桂氏は力説します。そして、「皆、いい意味での天邪鬼(あまのじゃく)になってほしい。」とおっしゃっていました。これが桂氏の提示する「エクソダス」、「思考のサバイバルのススメ」ということになりますでしょうか。

お二人の話を拝聴していて、いかに自分が考えずに生活を送ってきたのかと反省するばかりでしたが、桂氏がいうように、「消費社会の成れの果て」として東京を捉えることや、そのことに対して「問い」を持つことが、今、考えるべきことなのかもしれません。もちろん、そんな直線的に物事を考えている時点で一喝されてしまいそうですが、少なくとも私たちは、アメリカ同時多発テロ、リーマンショックに伴う世界的金融危機、そして、東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故を経験しています。そのような経験はそれまで意識することのなかった「消費」について考えるには、十分な出来事だったはずです。

揺らぎ始めている「消費」のあり方、都市の成り立ちを考えることで、見えてくる“現実”にそろそろ向き合わなければいけないのかもしれません。今回のトークの副題は「東京の終わりのはじまり」でしたが、この文は、「<これまでのノームの>終わり」と、「<これからのノームの>はじまり」と補足すると、お二人が言いたかったことが伝わりやすいのではないだろうか、と、誠に勝手ながら理(誤?)解している筆者です。

ジャック・ラカン(フランスの精神科医、思想家)は、近代(モダン)およびポスト近代社会について次にように言及しています。
ー近代およびポスト近代における資本主義産業の主たる生産物は、廃棄物である。われわれがポストモダンの存在であるのは、美的感覚の刺激をともなって消費されるすべての製品は結局余り物になり、やがて地球を巨大な廃棄物の世界に変えてしまうということに気がついているからである。悲劇の感覚は失われ、進歩はばかばかしいものに見えてくる。ー(参照 『脆弱なる絶対』(スラヴォイ・ジジェク著)P62)

また、今年の6月にリオデジャネイロ(ブラジル)において行われた「国連持続可能な開発会議(リオ+20)」におけるムヒカ大統領の演説も、消費社会について言及しており、気になるところです。
(参照 http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/

皆様はどのように捉えましたでしょうか。一人一人が考えるトレーニングを怠らないことが、お二人が伝えたいことの中心であったように思います。報告だけお読みになった方も、ぜひ当日のトークをご覧になってください。報告ではカットしてしまった川俣氏による「東京インプログレス」のこぼれ話などもトークの最後に聞くことができます。

予定より長文になってしまいました。ここまで長らくお付き合い下さった方に本当に感謝いたします。ありがとうございました。次回の臨床トークもきっと刺激的な内容になると思われます。ぜひご期待ください!