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臨床トーク_005「川俣正×桂英史×西條朋行」報告(前編)

臨床トーク_005「川俣正×桂英史×西條朋行」報告(前編)
『ワールド・スタディーズ』 と『脱学校』のための教育賢人会議

 

概要

2019年8月3日に西條クリニックで行われた「臨床トーク_005『ワールド・スタディーズ』と『脱学校』のための教育賢人会議」の要約書き起こしです。動画と合わせてご覧になっていただけたらと思います。
前半と後半で2つの記事に分かれています。
PDFレポートはこちらから。

talk01

 

目次

前編
1:脱教育とは?
1-1:これまでの経緯と「臨床トーク」について
1-2:桂さんの「教育賢人会議」について
1-3:イリッチの「脱学校の社会」に書かれていたこと
1-4:学校以前の場をどうやって作っていくか
2:学校で何を身につければいいのか?
2-1:お金がない学校と、塾に通い始める小学5年生。
2-2:自分で問いをたてる哲学の授業
2-3:どんなことがあろうが全部教育じゃないかな?
3:今の教育システムと日本の学生
3-1:環境から学び取るものが少ない
3-2:芸大がへんにトップ
3-3:先生の役割は友達?カウンセラー?
3-4:足りないのは”創造性”ではなく”哲学”
3-5:オルタナティブ教育の存在意義
3-5:システムが続かなくてもいいのかもしれない。

後編(別の記事へ移動する)
4:セルフエデュケーション
4-1:8月31日に増える自殺者について考えなければいけない
4-2:学ぶところはいくらでもある。選択肢の土壌を。
4-3:超規範的であることの問題(教育が人を殺している)
4-4:セルフエデュケーションで 経験をシェアし自身を更新しつづけていくこと
4-5:人生って難しくて楽しい
4-6:みんなが気持ちよく納得するのがつまんない
5:日本の教育のこれからは?
5-1:これまでの効率を高めるための教育システムはAIでガラっと変わる
5-2:内面(情操教育)だけで批評性が無かった日本の芸術教育
5-3:思考の主体みたいなのを作り変えていく教育へ
5-4:日本の教養学部は制度的なインチキ
5-5:先端は芸大のなかのオルタナティブだった
6:アート、美術館の役割とは
6-1:アートで世界は変えられますか?
6-2:アーティストとして博士号の意味は?
6-3:美術館に何を期待していますか?大学がこれから何をできるか?

 

1:脱教育とは?

talk02

 

1-1:これまでの経緯と「臨床トーク」について
西條:今日は開催の仕方がちょっと特別で、後で桂さんがご説明くださると思いますが、臨床トークとしては今回が5回目となります。初めての方のために、臨床トークなりの流れを説明させていただきます。

1回目は震災が起った2011年に開催。「セルフドキュメントという表現行為 ~川俣正はなんでもない」というテーマでした。川俣さんが「作品を作ること自体が自分をドキュメント化、対象化することで、それは結果的にそうなる」とおっしゃいました。積み重ねていた個人の意思が瞬く間に潰された年だったね、という振り返りがあり、最後に川俣さんが「喪失感がアーカイブをさせるのではないか、アーカイブで耐えることができるのではないか」という力強い言葉で終わっていたのでした。

その1年後の第2回目は、原発の収拾がつかずなんとなく暗雲の立ちこめてきた東京で「東京の終わりの始まり」がテーマでした。桂さんは「自分の人生をこれからどうするのかという問いの立て方が、非常に難しい状況。”考えない”というのが規範になっていて無力を感じ、反撃できるようななんらかの強烈な言説もない」とおっしゃっていました。私自身も脱出するしかないかと考えていたこともあったのですがそういう“エクソダス”をテーマに話すようになりました。桂さんが「いい意味での天邪鬼になってほしい」と提示され、思考のサバイバルをお勧めいただきました。

第3回は高山明さんもお迎えし、テーマは「アンガージュマンとプロジェ」でした。この辺になってくると西條には難しいんですけど参加者であるということと観客であるということの違い、その境界線の様なことを、演劇のみならず、アート全般でも、政治でも、考えていくというようなことを話し合いました。

第4回は、2016年に三脇康生さんをお呼びし、「批判的であることを巡って」というタイトルで行いました。三脇さんは実際の病院を解放した脱施設化の話をしてくださいました。単に「退院させました」で済むのではない、単に開くだけではなくどこかで閉じていないといけない、という話があり、これをうけて川俣さんが「ずっと時間をかけて発酵していくものが最近、少ないではないのか」「発酵して何か違うものになっていくものを見たい」と、桂さんが「利害関係で閉じる、壁をつくるというのではなく、地域というくくりに言葉を残すことが生命線」という名言を話され、感動的に終わりました。

今回は教育がテーマで、脱施設化というか脱学校という話になってくるのかと思いますが、桂さんと川俣さんに膨らませていっていただければと思います。

桂:では始めましょうか。

川俣:今年、パリのボザールをめでたくセクハラもパワハラもなく定年になりました(笑)。

桂:お疲れ様でした(笑)。美術系の大学の先生がアーティストの場合は自分が教師であることに照れている人が多いんです。それで学生たちが「この人は教師だろうか、何だろうか?」と読み取っているうちに学び取っているというのがある、というのもあって側からみていると面白いんですよ。

川俣:僕はそういうことはないけどね。

桂:その人の人となりを見つめるのが教育になっているというかね。それは日本だからかもしれないですが。

川俣:ヨーロッパは逆だもん。先生になるというのがステータスになっている。家の前にラベルをプロフェッサーなんとかっていうのをつくるでしょう。ヨーロッパではアーティストでもプロフェッサーをやってる人が多いし。でもアメリカは日本と近い、どこかで(教師であることを)隠しているところがある、「お前(学校の先生なのは)儲からないからだろ」と言われるようなのがありますよね。

1-2:桂さんの「教育賢人会議」について
桂:美術系は日本の中でも特殊な環境と言われていますけれども、今日はそのことも含めて、美術大学とかアーティストスクールの教育環境が、今の世の中そんなに捨てたもんじゃない、ということも話したいと思っています。

桂:僕らはNPO法人コミュニティ教育デザイン協会として川口市の図書館に附属する学習施設「メディアセブン」を2007年から13年間運営してきました。生涯学習施設として1年間オリジナルのワークショップを30個以上やるという非常に志の高い、これだけ頻繁にやっている学習施設は多分なかったと思います。ただ志が高ければ高いほど行政に嫌われるというのは世の常でして、ついに3月で川口市との契約を切られました。
一部では評判もありましたが、僕らもきちんとしたプロモーションをやってなくてもっといろんなやりようがあったのかもしれませんが、残念ながら手がまわらなくてできず、プログラムを回すだけで大変でした。川口市以外の方に知ってもらうのはなかなか難しかったのです。
メディアセブンの運営が終わるにあたり「教育をあらためて考え直す機会」ととして「教育賢人会議」というプロジェクトを細やかにたちあげました。トークだけではなく、実際に機会があればワークショップや私塾をやってみるという実践の場として立ち上げました(画面で説明)。
第1回目にトークとして来てもらったのが、学芸大の石井俊雄、アーティストの小沢剛、高山明。東大の社会学の水越伸がスーパーな司会をしてくれて、どうやってまとめるんだというのを見事にまとめてくれました。この時の話のきっかけにイリッチの「脱学校の社会」を紹介しました。

1-3:イリッチの「脱学校の社会」で書かれていること
桂:イリッチの議論の中で重視したのは「機会のネットワーク」です。学校、生徒に依存せず考えたり学んだりする機会はどういうものか?というものを、イリッチは当時からoppotunity webという言葉を使って表現します。

書いてあることは極めてまっとうなことですが、教育論でなりがちな抽象論、制度論に行かず具体的にこういうネットワークの作り方があるね、とか、学習するために必要な4つの資源は、事物、模範、仲間、年長者に出会うと。それをネットワーク化していくことがひとつの教育の機会。学校に替わるものになりえるものになりえるだろうと。

これは、今のアートの世界で社会にむけて外に広がっている活動のプロセスをそのまま踏んでいるような話です。60年代からシュタイナーの影響を受けた人たちが結構いて、アートの文脈でもいろんなことをやった人がいましたが、それにも通じる話で、きちんと読み直して、今に通じることがあるんじゃないか、ということを少しずつ考え実践していこうかなという話を教育賢人会議の第一回目でしました。
ヨーゼフ・ボイスがシュタイナーの影響を受け教育的な実践をした自由国際大学の話もしました。地域通貨をやりとりするというのをボイスもイリッチも提案しています。それも今の世の中に通用する何かがあるんじゃないかって気がします。

「教育」というテーマをうけて、昨日もあいちトリエンナーレで盛り上がっていましたけど(※)、ああいう事件も含めて学ぶ機会になっていくんじゃないかという気がするんですよね。事件に蓋をするんじゃなくて、起こっていることをどうやって機会のネットワークにしていくか、今回の教育というテーマになりました。
(※注:2019年8月2日河村名古屋市長があいちトリエンナーレを視察し展示を中止するよう求めた。)

1-4:学校以前の場をどうやって作っていくか
川俣:先端(※東京藝術大学の先端芸術表現学科。以下「先端」)のときそんな話したっけ?

桂:いや、その話する?(笑)先端のとき違う意味で面白かったのは、先生がみんな先生の初心者だったんですよ。終バスがなくなる11時すぎても学生の講評が終わらず、先生同士の教育論が始まるとかありえない不思議な場がありましたね。先端の最初の脱制度化した環境は面白く、学び取るものがあったんじゃないかと思います。

川俣:僕は最初からいきなり学校にいなかったもんね。何してもいいと、全員を妻有(アートトリエンナーレ)に連れていったものね。そしたら他の学科の1年生たちも誰も学校いなくなっちゃって、デザインなど他学科の先生たちみんなから「これは違うよ」って怒られて。「いやいや先端だからやっていいんじゃない?」とか。だから何にも知らなかったから立ち上げられたというのもあるかもだし、学生も右往左往しただろうけど、みんなで教育を作っていったような感じがするよね。先端を作っていったという気はないけれど。学校以前のような感じ、というか。

桂:学校というかアートという場をどうやって作っていくかっていう話をみんなでしていたと思うんですよ。3年ぐらいかけて「先端芸術宣言!(岩波書店) 」を出版したのが一つの回答。アートの文脈でいったん社会にでると子どもからお年寄りまでが観客になりえる、何らか関わっていかなくちゃならないということもあり、「教育」っていうものを考えるときに、アートの切り口から考えると今までと違った新しい考え方ができるんじゃないかなって気もしていて。その話を今回、「脱学校」っていうキーワードはしかもわかりやすい。学校ってこのままでいいの?

 

2:学校で何を身につければいいのか?

talk03

 

2-1:お金がない学校と、塾に通う小学5年生と。
桂:川俣さんは日本を離れてからずいぶんたつから知らないだろうけど、今、日本の大学で会議にでると最後にみんな「金がないから何もできないね」が結論で終わるんですよ。

川俣:予算がないからということ?

桂:そうです。予算ていうかお金がない、ほんとにないんです。

川俣:なくたって別にできるよね。なんか世知辛いね。

桂:そう思うでしょ。でも美術館でも図書館でも理事の幹部会でも会議の最後「うーん」って、みんな頭抱えている。

川俣:昔、芸大の教授会で誰かが教官はみんな作家だから、それぞれ作品を持ち寄ってきて「芸大が売ればいいんじゃないですか」っていってたよね(笑)
桂:今でもそうなの。これはね、芸大だからお金がないんじゃなくて、教育っていうものにお金が回ってないということなんです。どこいっても「お金が回ってない」ってない。もちろんかかりますが戦闘機にくらべれば安い。年間5兆円あれば全部無償化できます。

川俣:フランスは、ほぼ学費が無料だよ。

桂:日本は中途半端に小さな政府にして、ハーバードはこうだみたいな変なモデル(遠山プラン)があって、小さい政府、新自由主義、教育の市場原理主義化の3本柱で、(大学が)市場化していくわけです。自分で稼ぎなさいって言ってるわけです。そんなことのできない芸大は法人化でどこよりも先に授業料をあげましたが、これは教育の制度の問題として非常にシンボリックな例です。新自由主義がはびこり教育が後回しになっているってことが一番の問題です。じゃぁどうすればいいか?
教育に関して今の政権とか家族的な共同体を大事にしましょうとか言い出す人がいたりしてどうしたいのかが全くわかんないんですよ。例えば年収200万円の家庭は教育費を無償化する政策がでてきていますが、200万だと大学進学すら覚束なくすぐ働かなくちゃいけないというような家庭ですよ。全然リアリティがないんですよ。制度的にわからないところがいっぱいあります。

桂:その一方で教育だけは非常に相変わらず昭和の時代とそんなに変わっていない。例えば小学生がワークショップに活き活きと参加していても、5年生ぐらいになるとぴたっと来なくなるんですよ。なぜかというと塾に行くからです。これはどこのどんな非学校系プログラムでも、スポーツでも同じことが言えて、かなり才能を持ってる人たちが、小5ぐらいから塾通いでほとんど才能を活かすことはなく進学のレースにのる。
中学校受験の試験問題を見ればわかりますけど、AIがすごく得意とすることばかりですよ。パターンの積み重ねとか、組み合わせでなにか問題を解くっていうのはAIが得意なものですね。そうするとAIの時代に、一番みじめな思いをするのは多分彼らです。じゃぁ何を身につけていればいいのか?学校で何を身につければいいのか?って話になるじゃないですか。

2-2:自分で問いをたてる哲学の授業
川俣:個人的なこと言って良いかな。うちの子どもがフランスの学校に行ってるのね。自分で問題つくって、自分で答える、ってのいっぱいやらせるわけ。もう一つ、中学生に哲学の授業があって、ものごとをけっこう本質的に語り合うの。日本の教育にそういうのないよね。倫理とかあったかもしれないけど。

川俣:フランスの教育がいいか悪いかわかんないけど、圧倒的に違うというのはある。誰かのアンケートで「日本は割といろいろ平均的に習って特化した奴があまりいない」とか。何だろうな、「自分で考えて自分で解決する」ってことは子どもの頃に割りと身についてることがある訳よ。

川俣:僕、先端に行ったとき、なんて学生が幼稚なんだって思ったのね。非常に内向きな学生もいたし、なかなか来ないのもいたし、病気的なのもいたしさ。先端にくるってのは前向きかもしれないけど、目的意識がない。自分で考える、ってことをあんまりしていなかったのかなってのがあってね

桂:自分で問いをたてて自分でそれを解決するのは教育の基本と思うんですよ、特に個人主義を前提にした場合には。ところが個人主義のあり方が日本とヨーロッパで全く違うのは間違いない。だからといってアジアの集団主義で説明するのはボクあんまり好きじゃないけど、少なくともヨーロッパの「自分で問いを立てて自分で問題解決をする」のが教育の基本みたいなものはある。自然権思想が身についてほしいからだと僕は思います。人は生まれながらにして平等である、自由である、という自然権思想を個人主義として身につけてほしい、という基本的な考え方があるからなのかもしれない。

川俣:逆にヨーロッパではワークショップが成り立たない。「みんなで一緒にいろんなことを考えましょう」ってときに、個人で考えているからなかなかまとまらない。まとまらないで脱落していくやつがでてくるんだけど。日本でやってるワークショップのやり方だと、まず無理なのね。自分のアイデアばっかりいって他の人の話を聞かないってのがあるし。フランスだと特にそう。人が言い終わらないうちに入ってくる。フランス人批判じゃないけど、「自分」ってものを求める社会ってのがあると思うんだよね。ヨーロッパの個人主義ってそういうもんだってなってるところがあって、日本は違う作り方みたいなのがあると思うのよね。

桂:自分で問いを立てて自分で解決してたら、余計なことするなって怒られますからね。

川俣:そう(笑)。何か知りたい時は、自分がこういうふうに思うんだけどサジェスチョンでいいから何かくれないかっていう訳ね。サジェスチョンしても聞くのと聞かないのとあるわけ。でもそれでもって何が変わるってことがあんまりないかもしれないよね。どっかで自分の中でそれをひっくるめてやっていくのかもしれないけれど。

2-3:どんなことがあろうが全部教育じゃないかな?
桂:今日は西條先生が臨床トークでこのテーマを引き受けてくださって、西條先生がふだんお付き合いしている、もしくは先生の診療を受けている方々に、学校とか教育に関するアンケートをとってもらいました。

アンケート内容:
あなたが教育について思うことを聞かせてください。
自分が受けた教育について今役立っていると感じていることは何ですか?悪影響だったと感じているところは何ですか?
教育にまつわる嬉しかったこと、悲しかったことなど出来事があれば聞かせてください。
こういう教育を受けたかったという理想があれば教えてください
教育に関して面白いと感じたことがあれば教えてください
教育に関してくだらないと感じたことがあれば教えてください。

桂:どうですかこれ。川俣さんは、自分の受けきた教育で役立ってることはなんですか?

川俣:役立ってるか、あまり感じてないね。でもまぁ暗い日々を過ごしたっていうのは逆に役立ってるかもしれないね。高校時代とか受験とかなんかでさ。結構みんながわーってやってる中、美術室で一人絵をかいてて、非常に孤独だったんだよね。圧倒的に疎外感があった。でも受験校だから、いじめとかはないけど、ほとんどいじめられる的な感じの疎外感はあったね。先生からはずいぶんいじめられたけどね。「勉強なんでしないんだ」「絵描いてどうすんだ」とか「お前、芸大なんかいけるわけないよ」とか言われた。

桂:北海道の学校はどうして芸大に冷たいんですかねぇ(笑)。
えっと、この28歳の女性の方は、アンケートの「役にたつことはなんですか?」に校則で違反してワルかったある種の武勇伝が今、役にたっている、と。その当時の逸脱が役に立っているという意味だと思うんですけど。

川俣:アンケートに一通り目をとおしたけど、だいたい言ってることはよくわかりますよ。でも、何だろうな、それが全部、僕教育だと思うんですよねどんなことがあろうが。
例えば、いじめに会おうが、いい先生にあえたとか、暗い日々をおくったとか、あるいはいろんな経験があって今にいるわけでしょ。
ひょっとしたらその経験がどっかでいまの感受性になっているってのがあるのかな。そういう教育の経験の中から例えば鬱になってるのとかもあるでしょ、そこらへんから西條さんとこにきたとかいう人もいるのかな。

西條:昭和の教育は大変だったと思います。今ほど精神医学の知識をみんな知らなかった。僕自身も専門職になった後に、不登校の人に「なんとか学校に来ようよ」ということがどんなにひどいことであったかというのがわかりました。「青春」とか「友情」のみの方向で情熱的に学校に誘ってしまったり、それでも学校に来ないと「もうあいつはだめだ」みたいなことを言ってしまったり、無知なゆえにやってきたことがいっぱいあったと思うんですけど。そんな経験も聞けるかなとは思ってたけど、今回のアンケートに答えた方の中には、そこまでの影響を受けてっていうのは少ないと思います。実際そういうことを思ってらっしゃる方はいらっしゃいますが、割合はとても多いわけではないですね。

アンケートの回答より:「人がそだつためのポイントとして、生活環境、教育、性質の3つの要素があるのではないでしょうか。個人の努力で変えられるものから、変えられないものがあるのでは?」

川俣:「生活環境」で全てが言えるんじゃないかって思った。生活環境から教育環境があるというか。教育というのはいいことであろうが悪いことであろうが、今ある何かの教育を受けていようがなかろうが、いいふうに出る人と悪い風に出る人がいて。それ全てが教育の問題ではなくて、生活環境を含めたコミュニケーションであったり。「教育」をひとつポンと外して、教育だけ語るってできないんじゃないかなと僕は思うんだよね。

桂:それはそうです。そこでできてるのが「学習」という言葉です。

 

3:今の教育システムと日本の学生

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3-1:環境から学び取るものが少なくなっている
桂:教育と学習という言葉があって、そこは環境とものすごく関係する。人は生まれ育ったところからいろんなことを学び取る。自然環境とか気候風土、歴史から学び取り、発達段階で発達していく、というあたりまえの考え方があるじゃないですか。その発達段階の途中から制度的な教育が始まります。例えば幼稚園に行くのは社会化の一つの入り口。そこで集団のなかの自分みたいなものを学習しはじめる。つまり、「学び取る」ことと「環境を読みとる」ことを同時にしなければいけない。ところが、環境から学び取るものよりも学校の中での自分の役割があまりにも大きくなりすぎてそのバランスが崩れははじめるのも学校。
思春期になるにつれて、制度的な役割を演じる。「勉強しなさい」って言われてするとか、「できなきゃいけない」と思うのも、役割の一つだと思う。環境から読み取るものよりもロールプレイングゲームみたいなものに神経をすりへらして、最終的に環境から学び取るものが少なくなっている、このアンケートの方の答えを僕はそう解釈した。教育はいってみればパターナリズムのなかで年長者がこれからの人たちに与えていくシステムですよね。しつけとか含めて。

川俣:教育のシステムが「学校」ってことなんだけど、子どもが朝早く起きて学校行っていろんなことして帰ってくる、というルーチンつくることを学校でやっていくわけでしょ。でも教育って全般でいうと「脱学校」と「制度化されたルーティン」の話があるよね。そっちの方の話じゃないわけね。

桂:両方あります。ただ日本の場合は(いわゆる)学校のことを問題視しないといけない。

川俣:日本の場合は予備校とか、受験とか極めてルーティン化されたシステムがあるでしょ。

桂:いま学校がやってることは、ほとんどがドリル型学習ですから、そこで環境から読み取ったり、社会との関係で個人を確立させるみたいなことがなかなかできないわけですよ。

川俣:だから5年生ぐらいになったら塾に行くのね。フランスは塾ってあまりなくて、自分の個人授業として家庭教師を呼ぶの。しかも学校の年長さんを呼んだりする。年長さんが子どもに教えたり、「個人 対 個人」。たまにクモンとか速さを競争するのとかもやってますよ。やると早いのよ。でもだんだんと考えなくなるのよね。質問を読まないでばばっとやって全部間違えてたりするの。個人レッスンはいい先生も悪い先生もいるけど、日本の場合は塾で競い合う方がいいのかな?

桂 :マスで産業になりやすいというのがある。効率よくお金を集めてさらに学校を超えて受験対策するときに経済効率がよい。

3-2: 芸大がへんにトップ
川俣:ぼくも予備校で教えてたとき予備校で芸大を超えるということがあるのかなと思って。いっとき自分で学校つくるのがあったよね。その学校じたいがなんで芸大を超えられないんだろうなぁ。なんか受験ていう明確な目的意識がある。そこからはずれて受験関係なくやってもどこかで受験のトラウマみたいなのが残ったりしてあんまり上にいかなかったってかんじなのかな。

桂:でも今は非美大系をわざわざ標榜する若いコレクティブとかいますよ。そこそこ面白いことやってたりもしますけど。(この問題は)制度的なものなのか、そもそも何か根本的にスキルみたいな壁があるのかどうですか?

川俣:壁があると思います。「日本の美術は芸大が悪くした」という言い方があるじゃないですか。芸大の受験もそうだけど芸大じたいがへんにトップみたいなかんじでさ。

桂:いまや、芸大は関東ローカルの大学です。関東圏以外が2割くらいしかいないんですよ。みんなお金がなくて地方から芸大になんか通えない感じになってきてるんです。

川俣:芸大だからっていい先生がいっぱいいるわけでもないよね。

桂:それは知りません(笑)

川俣:ぼくらもだけどさ(笑)。

川俣:ただ、なんだろうな、美術に関して技術的なものも含めていろんなものを習得する、本当にアトリエ、学校だったとおもう。でも今更そんなことをやっているわけではなくて・・。美術学校に先生って必要なのかな?なんかこう話し相手みたいなものが年長でもいいとおもうけど。

3-3:先生の役割は?
川俣:先生の役割ってなんだろうと。かれこれ12年ボザールにいたけど、僕のいる存在価値ってなんだろうなとずっと思ってて。

桂:終わってみて、何だと思います?

川俣:友達かな。友達でいて、話し相手でいて、いろんな経験談を話すみたいな。時には手伝ってもらうアシスタントになってみたり僕も手伝ったり、友達みたいな感じ。先生に対してリスペクトはあるようなないような感じなのよね。だって先端の学生は先生をリスペクトしてた?全然してないよな?多少はあった?ふうん。

桂:多少なんだよね(笑)

川俣:研究室によるか?ま、そうだよな。

桂:僕先生やって25年ですが、唯一、僕ができることがなにかっていうとカウンセリングですよね。友達とはあまり思えないんですよ。彼らと絶対同等になれないじゃないですか。世代もある。なんかそこは傲慢な感じがするんですよ。彼らと「お前らと同等だから」ということ自体が傲慢な感じがする。だけど唯一、思えるポジションとしてはカウンセリング。答えになるかわからないけど話をきいてあげた結果、次に何か彼らが歩みが一歩進められるっていうね。すっきりしなくていいんですよ。もう一歩歩みを進められるっていうことぐらいしか僕のできることはないかなっていう。

川俣:僕は学生を他のアーティストに会わせるんですよ。学生は他の大学に行ったり、適当に集まってやったりいろんなところで話したり制作するんですよ。学校以上に大きなアトリエもってるやつもいる。いろんな先生がきたり、あんまり場所とか先生と生徒とかじゃない環境というか、そういうのがありましたよ。
学校に行けばいるよ、みたいなのはあるんだけど、いろんなことをやってる学生も多いから、一概に「絵画の先生」とか今更いないでしょ。絵を描いている先生、彫刻作ってる先生はいるけど。ほとんどそんなことやってる世の中、何かに特化しているアーティストなんてそんな今いないんじゃない。最近やっとダンス、パフォーマンスとか入ってきたけど。

3-4:足りないのは”創造性”ではなく”哲学”

桂:僕らのところには多いよ。映像表現科の先生として先端より長くなって15年います。それはともかく、もうひとつ、AIでなんでもできるときに、何が残されますかってときに「創造的なことっていうのがまだ教育にはあり得るんじゃないか」っていう言説が結構あるわけ。それにもちょっと違和感感じるんだけどどうですか?なんで違和感感じるんですかね。

川俣:ドリル的な教育やってきた中に自分で考えて自分でなんかするってのがあんまりないからかな。

桂:それもあるし、「アーティストの創造性みたいなのがこれからの教育に必要だ」とか妙なこという人たちがいたりするわけ。

川俣:一言でいえばいまの日本の学生って哲学がないって思う。それだけ。自分で考えることを構築していくみたいな「世界がこういう風になってて、でもこういう見方もある」みたいなことを、学ぶきっかけが全然ないか、少ないのかもしれない。だから一番言いやすい言い方で「想像的だ」って言うんだと思うけど、みんな普通は想像的。創造的じゃないと生活できないところとかいろいろあるし。でもそれをあえて言うのは、何だろうな、ルーティン化された教育の中で全然違うものが組み立てられない、組み立てたら怒られちゃうとかじゃない?

桂:なるほど、あのさ、塾に行って東大にいくのは楽なんだよ。工夫しなくてすむから。サラリーマンだけじゃなくても与えられる役割がある程度決まるでしょ。そこの争いになってくると彼らの方が事務能力が高いです。多分楽なんだね。そこでいう「創造性」ってのは「工夫」のことかもね。

川俣:でもルーティン化されたそこからでちゃいけないよ、その中でもっと工夫しよう、ってことだよね。それ全然意味になってないかもね。

桂:「日本の企業はユニークな人材を求めてます」とか言うんだけどなんだろうね?

川俣:内部告発みたいな?(笑)

桂:ここらへんで質問とか意見とかもらいながら進めていきたいので、どうぞ。

3-5: オルタナティブ教育の存在意義

会場から意見:予備校生時代に、Bゼミみたいなのが面白かったと思うし、そのへんの話を聞きたいです。

川俣:オルタナティブみたいなものがあったよね。今はどうかわからないけど。どこかで僕らのときはどうしても芸大がステイタスで一番になっちゃってるところがどうしてもあって、なんかへんなかんじ。気取ってるわけじゃないけど「芸大出たくせに」とか「お前が入ったから俺が落ちたんだ」みたいな。Bゼミは逆の方でやっていくというのがあって、偽学生でいったことがあるけど確かにおもしろかったな。

桂:オルタナティブのあり方の問題だと思う。映像でも映画専攻があるけど映画美学校てのが一方であったり、オルタナティブっていうのか大学以外に教える普通の教育機関て考えるのか。geidaiRAMもそれに近くって拡張された芸大ではあるけど、学歴になるわけではないので、むしろ非常に志が高く参加してくれてる人たちがいるのもあり、だからと言って、教育の方法として非常にいいかというとそこはわからないですね。でも「オルタナティブ」がもってるのは時代にものすごく関係していると思う。普遍的なオルタナティブはきっとない。今だからこそRAMが成立しているかもしれないと思う。オルタナティブっていうときのなんというか同次代性があるのでは?

3-6:システムが 続かなくてもいいのかもしれない。

川俣:逆に今なぜBゼミが機能しなくなったのかが明確だと思うけど、ああいうオルタナティブみたいなことを大学がやり始めた。例えば先端とか。いろんな先生を呼んできて講義をしてみたりが、それまではBゼミしかなかったよね。一番活躍してる作家が先生をやるのは今は大学もやりはじめてて、Bゼミの彼らも存在意義が薄れてきたのは、そこら辺が大きいんだと思うんだよね。

桂:大学っていう制度がBゼミみたいなオルタナティブのやっていることを飲み込んだっていうこと?

川俣:そういうことだと僕は思う。そう言えば時代背景とかも入ってくるけど、先鋭的な一つの形があって、やって行くんだけどずっと先鋭的であるわけじゃなくて、どこかで他のところに影響を与えて、だんだんと凡庸化していくってことなのかもしれない。

桂:続かなくてもいいのかもしれない。

川俣:続くということは考えてないということなのかもしれない。ボイスの自由大学もまさにそうだったし、そういう意味ではある意味「脱システム」というか、学校というシステムから外れているオルタネイティブの学校っていろいろある。そういうことのほうのがひょっとしたら、想像的なものをやっているのかもしれないし、それをどこかで教育しているのかもしれないし。それが今必要なのかどうかもわからないけど。

<後編(別の記事)に続きます>

レポート:坂井 理笑
似顔絵:栗田 朋恵