臨床トーク_005「川俣正×桂英史×西條朋行」報告(後編
)
『ワールド・スタディーズ』 と『脱学校』のための教育賢人会議
概要
2019年8月3日に西條クリニックで行われた「臨床トーク_005『ワールド・スタディーズ』と『脱学校』のための教育賢人会議」の要約書き起こしです。動画と合わせてご覧になっていただけたらと思います。
前半と後半で2つの記事に分かれています。
PDFレポートはこちらから。
目次
前編(別の記事へ移動する)
1:脱教育とは?
1-1:これまでの経緯と「臨床トーク」について
1-2:桂さんの「教育賢人会議」について
1-3:イリッチの「脱学校の社会」に書かれていたこと
1-4:学校以前の場をどうやって作っていくか
2:学校で何を身につければいいのか?
2-1:お金がない学校と、塾に通い始める小学5年生。
2-2:自分で問いをたてる哲学の授業
2-3:どんなことがあろうが全部教育じゃないかな?
3:今の教育システムと日本の学生
3-1:環境から学び取るものが少ない
3-2:芸大がへんにトップ
3-3:先生の役割は友達?カウンセラー?
3-4:足りないのは”創造性”ではなく”哲学”
3-5:オルタナティブ教育の存在意義
3-5:システムが続かなくてもいいのかもしれない。
後編
4:セルフエデュケーション
4-1:8月31日に増える自殺者について考えなければいけない
4-2:学ぶところはいくらでもある。選択肢の土壌を。
4-3:超規範的であることの問題(教育が人を殺している)
4-4:セルフエデュケーションで 経験をシェアし自身を更新しつづけていくこと
4-5:人生って難しくて楽しい
4-6:みんなが気持ちよく納得するのがつまんない
5:日本の教育のこれからは?
5-1:これまでの効率を高めるための教育システムはAIでガラっと変わる
5-2:内面(情操教育)だけで批評性が無かった日本の芸術教育
5-3:思考の主体みたいなのを作り変えていく教育へ
5-4:日本の教養学部は制度的なインチキ
5-5:先端は芸大のなかのオルタナティブだった
6:アート、美術館の役割とは
6-1:アートで世界は変えられますか?
6-2:アーティストとして博士号の意味は?
6-3:美術館に何を期待していますか?大学がこれから何をできるか?
4:セルフエデュケーション
4-1:8月31日に増える自殺者について考えなければいけない
桂:美術学校から一般の話にもどすと、西條先生が言われてたけれど、その一方で不登校の数は僕らの頃より今は圧倒的に多いんです。自殺者の数も日本は多い。いろんなデータ操作があり遺書がないと自殺と言わないらしく変死扱いらしい。なので正確な数字が分からないけれど。8月31日になると小中高生が変死者になっちやう。9月1日に学校いきたくないわけですよ。「行かなきゃいけない」と思うとこの世の終わりの気持ちになって本当に死んじゃう。
桂:僕もtwitterで呼びかけたりしましたが、とにかく8月31日に死にたくなったら図書館に行きなさいと。図書館には誰も何も言う人がいないし、ひょっとしたら本とか人とか違うチャンスが訪れるから。つまりね、チャンスが今の学校にはない。いじめられるチャンスがあっても、自分が救われたり、自分を変えられるようなチャンスが残念ながらない。だから絶望的な気持ちになって自分にとっては「この世の終わり」に。
川俣:学生が追い詰められると。それは個々の学生の問題なの?それともシステムの問題なの?
桂:両方あると思うし、家庭の問題もあると僕は思う。その彼が育ってきた生活環境をどんな風に読み取ってきたかというのも大きく関わって、第2次成長になってその矛盾が一気に出るんですよ、その時に学校に強いられて、ロールプレイングゲームをすることだけがイコール「自分の人生」になっちゃう。
そうすると明日学校行かなきゃいけないってことがものすごいつらいことになってしまう。このことが実はやっぱりいちばんいろんな人が考えなきゃいけないことだと僕は思うんですよ。8月31日問題。これは分野に関係なくあらゆる大人たちが考えなきゃいけないこと。特に日本では。
多分これは日本の特殊なもの。
西條:自殺をしないでっていう話を、NHKの番組で「#8月31日の夜に。」という番組でハッシュタグつけて、といろいろ話題になりましたね。(※NHK番組リンクあります)
桂:本当にそれ丁寧に声をかけないとあっという間に自殺しちゃうんですよ。
川俣:そこまで追い詰められてる「システム」で「判断」なんだね。それはなんなんだろね、要するに他に行き場所がない、選択肢がないってことなのでしょ?学校に行くか行かないかではなく「行かなきゃならない」ものになってるわけですね。それが嫌だと。「行かなきゃいいんじゃない?」ってしか言えない
けど。
桂:そう言うのは簡単なんですよ。でも、彼らは行けない自分を追い詰めている負い目みたいなものがあるんです。「ひょっとして自分はもう社会から脱落してるんじゃないか」とか、「大きく逸脱しているんじゃないか」とか。オブセッション(強迫観念)があり、いろんなオブセッションに押しつぶされて、おそらく8月31日に死を選ぶことになってしまう。ここはね、どういうことで救えるかは今は一番考えないといけない。今月の末になるとまた8月31日がやってきますからね。
4-2: 学ぶところはいくらでもある。選択肢の土壌を。
川俣:(フランスの)大学でいえば、スタージュというのがある。大学3年で中間のディプロマあげるのね。後は自由な訳。街に出て、建築会社とかに働いたりとか、社会に一回出て行く。「学校でなければいけない」というところが僕はすごくつまんない感じがする。
学ぶところはいくらでもあると思うの。ただ威圧的なシステムのもとで自分が脱落したらどう、とかだけれど、みんなが脱落すればいいんじゃないかと思う
んだけどね。みんなが外でなにかやればいいわけだし。脱落してまた戻るひとは戻ればいいし、戻らなかったら戻らなかったで、いろんなこと勉強すればいいわけだし、ひとつの強力なルーティン化されたシステムで、最後までそこにいたければいいし、途中で脱落してもいいんだけど、とりあえず経験としていっぺん脱落してみるとかさ。学校に一回行かない、とかさ。
西條:そういう選択肢をいっぱい示してくれるような大人とか土壌が全然育ってないというのがすごく大きい問題じゃないか
と。
桂:学校の側にいないんですよ。これだけ不登校の子たちがいても、先生たちはどうしたらいいのかが多分わからない。
川俣:不登校生を集めた学校はあるでしょ?
桂:もちろん。それはたくさんあるし。それなりの工夫をしている教育者もたくさんいる。
桂:制度的な問題で解決しようっていうのはあれなんだけど、それって教育で人を結局殺してるんじゃないかってのが僕の問題提起です。だからこそ教育ってものを考えないといけない。教育で殺してることになりますよね「学校」という制度で人を殺してることになるんだからそれはなんとかしなくちゃ
と。
川俣:制度が問題だってことだよね
桂:そうです。その規範的な考え方がいかに彼らにとって抑圧的になってるのかってことをもっと理解させるためにはどうすればいいか。いろんな人が理解するためにはどうすればいいか?、ということです。そのためにあらゆる言葉とか、いわゆる表現の手段を駆使しなければならない。
4-3:超規範的であることの問題(教育が人を殺している)
川俣:規範的なものにのっていかなければならないと思ってる、そこだと思うんだよね「乗らないといけない」とみんな思っているわけよね。規範をやぶっちゃうと、もう脱落者になっちゃうとかいろんなものがあるわけだから、その一つの教育のシステムにのっからざるを得ないと思ってる自分の声があれだと思う
んだよ。
桂:でもね、これは日本だけのこと、学校、親だけの問題じゃなく、「規範」ていうものの問題だと思う。
社会規範が生活を大きく規制するのはある意味近代的な産物ですよね。法律とか共同体の規範ていうのはほとんどが近代的な産物です。家族的な規範もそう。英語で言うとノーム。そこから外れるひとはアブノーマル。そこがまず差が激しいわけです。そういう時に日本社会の中でノームとは。個人主義の話になるけど、個人なのか集団の中での自分の話なのか、みんなわからなくなってるわけです。中学生になると個人で学校にいってるのかなんのために学校に行ってるのかわからなくなる。そこで引き裂かれている。
川俣:だから哲学がないんです。
桂:反応早いな(笑)。
西條:その時に、なんて言うんでしょう。その時に”超規範的”な生徒会執行委員会みたいなのとか、軍紀的縛りでビシっとやって、ガタイのいい”お兄さん型”がかっこよく思えるってていう若者もいっぱい出てくるんですよね。単に従っていればどんどん強そうな人からいっぱい賞賛を与えられるし、逆に自分はいじめにあわなくなってくるという土壌がいっぱいあると、考えることなくその方向へ行っちゃう人がいっぱいでてくる。
川俣:エクストリームな状況のシステムを作っちゃうわけね。そっちのが楽だもんね。
4-4:セルフエデュケーションで 経験をシェアし自身を更新しつづけていくこと
桂:そこでね川俣さん個人の話をきくけど。「セルフエデュケーション」て言ってたけれど、その話をしてみてもらえますか?アルコール中毒の患者さんたちが治療していく段階で自分はどうして中毒になったのかを語り合うことで、社会化のプロセスをもう一度やりなおすという話がありましたね。
川俣:セルフエデュケーションに直接関わるかはわからないけど、僕が活動していたオランダはドラッグフリーだけど、「自由だ」っていうのは自分に責任をもてよということと同じわけね。自分に責任をもたないと誰も助けてくれないよ、って話。ドラッグとかで中毒になって病院に来る人は誰一人として(自由な)社会が悪いとかシステムが悪いと言わないわけ。自分がお酒を買えるし身分もあるなかで、自分がどこかで自身を変えざるを得ないし、変えなかったら変えないでそのままだし。
みんなが自分を変えようと思って病院にきてるわけでもなく、とりあえず今はドラッグをストップしておこうみたいな人もいる。病院を出たらまたドラッグする人もいる。患者さんの80%がクリニックに戻ってくるんだ。ほとんどの人じゃない?彼らはその中をいったりきたりしてるわけ。でも、それはね、なんだろな、ある時はどこかで「これじゃまずい」みたいなのがあってくるんだし、それを自分たちで変えていこうと変えるひとはいるけど。
みんなでディスカッションしながら、もっと先鋭的に話し始めるわけね。家庭から何からみんな全部だして共有するわけ。だからその場所ではドラッグをやらないようになる。けどクリニックを出ちゃうと、それがどこまで続くかわからないけれどまたドラッグ始めるひともいればそのままやっていくひともある。
セルフエデュケーションというのは常に更新していかなきゃいけないのね。条件はあるんだけど、自分のある種の経験を振り返り、シェアすること、それでずいぶん救われていくことがあると思うんだよね。一番近いのは友達関係みたいなのを一人でも二人でもいればシェアできるところってあると思うんだね。
桂:本当にその時によりよい自分を想定しないで(病院に)来ているのかね。場当たり的に来いと言われたからきただけ?
川俣:そう言うわけでもない。心のどこかで自分の生活を変えたいと思ってるんじゃない?道端で転がっていたから連れて来られているやつがだいたい多いけどね。でも何だろうな、大学で何を教えられるかと思った時に、自分でどこかで問題を見つけて解決していくなかで自分を教育するみたいなことが必要なんじゃないかな、と思ったよね。
4-5:人生って難しくて楽しい
桂:ラカニアン(ラカンを読む人)はよく出す例だけど、「自己理想の交換」という考え方がある。自分が理想とするイデオロギーの自分と、今の自分と交換していく。それによって獲得するものを獲得していくという精神的な考え方がどこかにあるんですよ。特に近代的システムの中ではこういうことを達成して自分が何かを成就したいと。それで充実した人生みたいなものが自己理想としてあって、子どもたちの言葉でいうと「夢」とかいうけど、いつもひょっとしたら日々起こってることかもしれないと思うんですよ。
自分にとっての理想とは何かというのは哲学的な問題ですよね。今何かを食べたいということも含めて自己理想を感じる哲学的なことは本当は毎日割と起こってると思うんですよ。これを言うのは簡単だけど「難しくてよく分からない」ってことを、この国の大人たちはよく言うんですよ。難しいことが嫌いなんですよ。でもね「人生って難しい」ですよね。
簡単なことはむしろ少ない。だからこそ、難しいことを考えたほうが楽しいことだってたくさんあるじゃないですか。
それがどうして受け入れられないのかなって僕は単純に思うのです。難しいことに価値があるってこの国の社会はあんまり思ってないわけ。「わかりやすい」ってことが重要だと言われてる。
4-6:みんなが気持ちよく納得するのがつまんない
川俣:難しいことを難しく言うんじゃなくて、難しいことでもわかりやすく言えないかってことを求められているのかな?
桂:うん、でね。分かりやすく物事を言いすぎる奴はだいたい胡散臭いじゃないですか。簡略化し過ぎているなかに教育的な配慮、啓蒙的なことが入ってたりして、それが以外とみんな気持ちいいんですよ。分かりやすいから。テレビで池上彰とかに教えてもらうんですよ。
西條:それは言う方は巧妙に考えてやってるんですかね?
桂:もちろん、やってると思います。タレントとしてそうだと思いますね。
西條:そういう人たちは利口なんですか?そう言う面で。
桂:まぁそうですね。様々な社会の問題が難しいことはたしか。それは間違いない。だけどひとときでも分かった気になるというのはみんな気持ちいい
んですよ。
川俣:ポピュリズムて言い方があったじゃない?みんながわかることを喋ると言うか。
桂:ポピュラリティですね。ポピュリズムは政治学の言葉では、狭義には大衆に迎合して人気をあおる政治姿勢や政治手法のように使われますが、広義には大衆の考え方を最も尊重しましょうという反エリート主義のニュアンスもあります。
川俣:大衆迎合主義で、迎合し、わかりやすく言ってると聞いてる人はそれがわかる。わかりやすくどんどんいくと、どんどん抜け落ちていくことがある
んだけど。簡単にわかりやすく言ってしまうことで、みんなが納得するってところがある。それがつまんないところに行ってるなってことある
よね。
5:日本の教育のこれからは?
5-1:これまでの効率を高めるための教育システムはAIでガラっと変わる
質問者:お話を聞いてて、「生産性」てのがすごく重要なところかなと思いました。川俣さんが言ってたような「脱落の経験」は生産性がないから、日本では全く必要とされない。でも人より劣っている部分とか脱落とか、それを価値あるものとして変換できるのが美術の一つの役割だと思う。けどそれもだんだん機能しなくなってきちゃってて。
個人主義、集団主義という話があって、ヨーロッパの教育でつくられた個人主義と社会ののなかでも、いまでは生産性で分断ができてるという現実もある。フランスの黄色いベスト運動とか、アメリカのトランプもそうだし、台湾の問題も、「生産性」で作られてきたいろんなものが天秤にかけられている気がして…
川俣:ちょっといい?君が言ってる「生産性」てどういうのか、もうちょっと話してもらえるかな?ものを生み出すということ?作っていくってことなのか、ものが成立するってこと?
桂:効率のこと?
質問者:物を作るうえでの効率というか、いかに生産力をあげるか。結局、資本主義で生きているから、どうしてもそれがベースになって、生産性が劣っていることはそれに反するという。
桂:それは、そういう面も実はあって。いわゆる今の教育システムはほとんど労働教育なわけです。
9時に始まり5時に終わる、労働者を慣らすための教育でもあるわけですよ。毎日同じ時間に来て帰る。「生産性をどうやって身体化するか」というのが学校制度の基本になっている。実際にイギリスの工場法という、いまでいう日本の労働基準法ができたのが1850年です。ポリテクニークていういわゆる工業大学が成立したのも図書館法ができたのもその辺り。つまり、1850年前後で教育はほとんど労働者の教育として確立したという面がある。
川俣:彼が言ったように生産性をあげるための効率の方法が教育だったのね。
桂:そう。で、その身体化をここ200年ぐらい続けてきていて、さらに資本主義がこれだけ高度化していて、もう最終兵器みたいになってきている中で、ここをどうやって対抗するかというのが。まぁ脱資本主義の考え方でもあるんですよね。
川俣:そしてAIがはいってきたらもう、完璧に、教育のある部分がガラッと変わると考えられるよね。
桂:そう。にもかかわらず、一方で、ビジネスの役にたつ実務者の教育をしろみたいな方針も日本の大学ではあったりするんですよ。そんなAIに代わるようなことを大学でやってどうするんだと思うんですけど、実際にはそういう人たちもいるんですね。
桂:だから身体化した労働者の教育みたいなものが、ある意味8月31日問題を引き起こしているところもあって
、西條先生は直接的に学校のことは引き金になんないとおっしゃいましたが長い目でみれば間接的にはその蓄積がそのまま規範化していって、それにずっと抑圧されているうちに病気にいたるということは当然あると思いますが、どうですか?
西條:このアンケートに書いてくださった人と、このクリニックが商業地域というのもあって会社や家族で何かあったという方がたまたま多かったというだけであって、もちろん学校の問題が多いところだとは思います。
川俣:他に何か質問あるかな?
5-2:内面(情操教育)だけで批評性が無かった日本の芸術教育
質問者(西本さん):教育の中に「創造性」を入れるという話がありましたが、教育が芸術を求めてきた理由について、桂さん、川俣さんの中でヴィジョンがあったらききたい。芸術は、教育の徹底的な再生産や目的、合理性を「崩す」可能性として近代教育が出来た頃から求められてきた。でもずっと敗北して太刀打ち出来なかったと思う。いま資本主義が最終兵器状態のなかで芸術がどうできるのか、みたいな話なのかなと。芸術も資本主義の運動の中に対立構造に取り込まれそうになっている中で、資本主義を対立項にして芸術と教育はどうからむのか、みたいな。芸術の方に話を戻して聞いてみたい。
川俣:昔は情操教育って言われたの?美術とか音楽とか、そういうものは。情操教育とはどういう意味なの?
桂:西本くん、情操教育てどういう意味なの?彼は教育学専攻の大学院生です。
質問者(西本さん):「芸術が心の内面を育む」と。「情操」というとき個人の内面を育成しましょうという話になる。内面を豊かに表現できることが教育的によいことで、自己表現できるオトナになりましょうみたいな話で・・
川俣:それは小中であったんじゃない?絵画とか図画工作とか。あるときだんだんと絵画とかが削られて意味を持たなくなってきた。システムの中で情操教育が減ってきたのはたしかだよね。今もう無い状態だよね。
桂:フランスの子どもたちも”手を繋いでおひさま”みたいな絵かくの?
川俣:手を繋いでお日様・・・それはないかもしれないけど、でもまだ中学校ぐらいまではもちろんアートの時間もあるし、音楽もやったりいろいろやってるよ。日本はどうなの?
質問者(西本さん):日本はずっと学校の美術とか音楽は、情操教育しかやってこなかったんです。鑑賞教育はまったくやらない。芸術は何かという話をまったくしない。むしろそういう部分が抜け落ちるから芸術は内面を表現すればいいみたいな話に終わっちゃうことのほうが僕はまずいのかなと思うんです。
桂:今、西本くんがいい質問をしてくれましたね。創造性というときに、作ったり書いたり、なにか表現する方ばっかりに話が行っちゃうんですよ。その違和感です。
さっきの”AI”以外にできる教育。もしアートに貢献できることがあるのだとしたらどこにあるのか?といったら僕はひょっとしたらこれはオーディエンススタディ、つまり自分が観客にどうなるか、つまり作家だってオーディエンスになるわけです。そのなりかたっていうものがある種のモノの見方とか、この作家は何故こんなものを作るんだろう、なんで川俣はこんなものをつくって評価をうけてるのか、というのを考えるとかそういうことが日本では決定的に欠けていますね。
川俣:要するにクリティカル、批評性だよね。
5-3:思考の主体みたいなのを作り変えていく教育へ
桂:ワールドスタディーズという言葉を僕がここであげているのはまさにそこです。「世界」ってものが、通り一遍の見方しかできなくなっている世の中で、「世界」を考える「思考の主体」みたいなものをどうやって作り変えていくかってことでワールドスタデイズという言葉
を使ってる。これは鑑賞者と同じなんです。受け手としてどうやって成熟するか、考え方として何が用意されるべきか、ということすら今議論されていないんじゃないかと思うんですね。
だからいま実は大学院生でもオーディエンススタディやってる。オーディエンスのスタディやっている作品みたいな作家も結構いたりする。それはひとつの流れだとは思うんですけど、でもその問いがもうちょっときちんと整理されて、教育っていう文脈に早く入ってくるといいなと思ってる
んですけどね。
桂:情操教育ってのはむしろ「これを表現すると人間の内面が豊かになります」ていう教える側のパターナリズムがあるわけです。ものすごく確信的な思い込みがあってそれを一方的に押し付けてる。だけどそれを受け取って「世の中が”こういうものだ”と考える人たち」の教育はできていない。そこが多分ひょっとしたらドリル型学習以外にとりあえずできる一番の可能性なのかなという気がします。
5-4:日本の教養学部は制度的なインチキ
川俣:大学の教養学部がすごく減ってるでしょ。教養学部の役割ってのをすごく軽視しているというか。それを再開するということなのかな?
桂:さっきの(アンケート)でフランスの教育を受けた人も書いていたけど、「教養の滲みでる人になりたかった」みたいなのあるんですよ。教養って何かというと、世界を読み取る、もしくは世界を解読する方法の集合ですよね。そういうものが今ひょっとしたらアートの文脈でいうとオーディエンスのことを考えることなのかもしれないし、川俣さんが言った意味での「個人が自分で問題をつくって解いていく」ことに近づくための具体的な方法としてあるのかなって気がする
んですけどね
川俣:教養学部を出てそれから専門にいくというのが昔の大学にあったじゃない。そういう一般教養てのは、少なくても大学生だったらこれぐらいは知っておかなきゃいけないよね、ということを勉強することだったのかな。
桂:日本の教養学部はちょっとインチキなところがあって、昔の一高とか高校の部分をどう読み替えるかときときに、より一般的なところから専門に入っていくという意味で教養という言葉を使っただけで。世界を読み取る能力をつけてから専門に入りましょう、ではない。制度的なものを教養学部というふうに読み替えただけ。
川俣:美術大学に教養学部が必要なんじゃないかと一瞬思ったときがあったんだけどね。通過していかないとモノが作れないみたいな。
桂:先端は教養科目を潰してつくったんですよ。
川俣:そうなんだ(笑)それ先端だね(笑)
5-5:先端は芸大のなかのオルタナティブだった
西條:あの、2002年に初めてお伺いしたときの、先端の皆さんの状況を見て「こういうのが日本にあるのか」と本当にびっくりしましたし、リベラルアーツってこうやって教えられるのかと、ひどく感激しました。
川俣:僕らもそういうつもりで、やってたよね?
桂:まぁそうですね。他にはなかったことをやっていたことは確かだと思います。
川俣:ああいう時間、学生は幸せなんだよ。やっぱり。あんなところにあんな状態でいられたのは。
桂:僕は先端を出て美術学部を離れて横浜の映像(映像研究科メディア映像専攻、以下、映像)に行った。ここで四方山話してもしょうがないけど(笑)、川俣さんも辞めるという話になり藤幡さんからちょうど映像作るという話があって、最初は「ん?」と思ったけど、それに積極的に乗ろうと思ったのは、このまま美術と上野の政治力学にいたら先端でやってたことが無になると思ったです。先端の人たちには申し訳なかったけど、とにかくオルタナティブでありたいと思って歯を食いしばって映像を立ち上げました(笑)。結果的に横浜にできてよかったと今はつくづく思います。あのままやってたら僕自身もつぶれちゃったかなという気がする。ひょっとしたらやめていたかもしれない。で、結果的には教師としてはわりと恵まれたプロセスをふんできたなという風に思います。もちろん自分の出来ることは言葉の限りをつくしてカウンセリングをすることぐらいしかできないなと思います。努力をして言葉の限りを尽くすということが重要だと思うのです。
川俣:僕、さっきの生産性って言葉気になるんだけど、アーティストの生産性というのは社会の生産性と違うんじゃないかな。逆に僕らがやっているのは何かを生み出しているのかもしれないけど、うみだすきっかけとか生み出している状況とかは今の生み出されているものに対する一つの批評性としての生産性だと思うんだよね。だから多分それがアーテイストの役目だと思うし、だから、どんどん何かをつくっていくということじゃなくて作っている状況が批評的な意味での・・
会場:あ、横浜から質問があります。
川俣:あ、そう。ちょっと、僕、まだ今話しているんだけど・・(笑) いいよ。
西條:フランス人(笑)
6: アート、美術館の役割とは
質問者:ラムの研修生のヤマトと申します。大学院を卒業して十何年たち、自分のキャリアの段階において学びたいことがどんどん変化する、その受け皿が芸大にあると知った。違うジャンルの人と知り合えて意見を言い合える、作家自身も鑑賞者であり、ネットワークが豊かなものにならないと日本で見る作品がどんどん貧しくなっていくのではないかと思い、自分もよい鑑賞者でありたいという気持ちでラムに参加しました。
自分は地方で滞在しその場で制作することが多い。ホームステイや地域の人と交流していく中で、子育て世代とよく会う。東京で出会わない人と出会えるかんじがある。移住されている方が多く、親御さんがとても文化的なことに飢えている。震災などいろんな理由で移住を決めて意識的に住む場所を選んでいる親御さんと話したときに自分たちは必要性があって来たけど、子どもたちの教育はやはり都市のほうが豊かではないか、でもここで文化的な教育の場になんとか触れさせたい、とものすごく飢えている感じがある。なのでアーティストがいると何か得られるのではないかと思ってお子さんを連れてくる。
桂さんは地方の芸術祭プロジェクトがあまり好きじゃないと読んだことがありますが(笑)、私はそういう問題はわかりつつも個人で人と関わる中では生身のアーティストがそこに行ってなにかできることはあるなと感じるのですが。質問になってないですね。都市では競争社会なのでこういう価値観もあるよといろいろ提示しても都市空間がそれを許さない感じがあるが地方にいくとそこが緩むというか、意識的にそこから距離をおいてる親御さんなので受け入れてくれる方も多いなと思うのです。いかがですか。
川俣:それは、アーティストじゃなくても誰でもいいわけでしょ?だから東京から地方にいくって人がいればいいわけだし、地方から東京にきたひとが何かすればいいし、今そういうのもずいぶんいるじゃない?それがあえて別に「アーティストが何か」でなくてもいいんじゃない?
質問者:たまたま自分がそう(アーティスト)だから思った。
川俣:それを今さぁ、ステレオタイプみたいに「アーテイストの役割だ」と思っている人がいるからバカだと思ってるの。それを今あなたに言う必要ないんですけど(笑)。
桂:実はこの質問は台湾でも去年あった。川俣さんにワークショップをやってもらった。その時「アートで社会が変えられるか?」という質問をみんなにしたんですよ。そしたら川俣さん以外のみんなが「変えられる」って言うんですよ。あれは僕は逆にショックで。
川俣:最後に桂君が自分で言わなかったのが僕はショックだったよ(笑)
桂:(笑)。僕は「変えられる」とは思わないです。
今のアートというシステムは変えられない。でもさっきの川俣さんの言う「哲学」、僕がいう「受容者の教育」、世界のメンバーであることがどういうことであるかと考えると、アートを通じてそういうきっかけにはなるかもしれないが、直接的には変えられない。地方の芸術祭で「何か」してね、「地方が変わりました」っていうのはおめでたい人たちで、逆に言うとすごく傲慢だと思うんですよ。デベロッパの人たちとそんなに変わらない。
川俣:(僕は)変えられませんって言ったんだっけ。「変えられると思ってやりつづけるしかないな」って言ったんだよな。そうは思っててもやりつづける、ゆくゆく変わると思ってなくてもいいから、やり続けるしかない
と。
昨日は新潟大学でレクチャーしてたんだけど、地域おこし、地域社会でアートがひとつの有効性をもつみたいな話をやっていたから。地域おこしとか町おこしとか延々と言われるよね。アートは全然別個なものだと思ってる。なんでアートで町おこしとか繋がっていくのかなあと思って。
地域おこしって全然違うものとしてあるじゃない?「アートで地域が元気になった」とかって昔あったじゃない?その時、西條先生を連れて行ったんだね。本当に元気になったかどうか調べてもらおう
と思って。
西條:「本当ですか」とは聞きませんが(笑)
川俣:芸術祭でどんな効果がありましたか、とか聞いたんですよね。
西條:まぁ、お叱りを受けたりはしましたね。「オブジェで怪我した」とか。
川俣:あぁ、、そういう話か。
西條:「いろいろ大変で、無理して合わせてるんだけど」とか本音を言う人がバンバンいたりしましたね。
川俣:あれ北川フラムさんから怒られたんだよ。
桂:いやフラムさんが世界を変えられないって言ったらおかしいんですよ。地域は変わりませんって言ったらなんだろうか。
川俣:内部告発なわけだよね。
桂:それはまぁ、いいじゃないですか(笑)。
質問者:ラムのインターンのソフィです。最近、アーティストが高等教育の中に立ち位置を見出している印象がある。自分の表現の言語化を求められていたり、アーティストはアカデミズムの中での関わりが重要になっていると感じる。お二人の意見を。
桂:Ph.D(博士号)をとるということがアカデミックのキャリアパスになっているということ?それはね、以外と世界中に無いんですよ。芸術大学でアーティストにPh.Dをあげているというのは世界的に多い例ではないんです。むしろ、いろんな国の人が「アーティストに博士号どうやって出してるんだ?」とヒアリングしに来るくらい。たとえばロンドン芸術大学では我々を真似てアーティストにPh.Dを出そうという雰囲気がある。でも、そこで出している博士というのは何かアカデミックな活躍をしてほしいという意味ではないんですよ。単に大学という場で自分のやったことを強いて言語化して次に進むための一つの整理をしましょうと。アーティストのミドルキャリアのためのキャリアパスになっているというのは確かで、それ以上でも以下でもない。アーティストや終身教授にお墨付きを与えているわけでもない。普通の一般のPh.Dとは違うんですよね。
川俣:ボザールは最近博士課程できたんですよ。何人かの学生はいる。アーティストが芸術博士になりえるというのはあり得ると思うんだけど、それがアーティストのキャリアになるかどうか評価はできていない状況だと思う。芸術博士ができたからって、美術館で展覧会できるよ、みたいなのは全然なく。それが何になるのかってのは見えてこないけれど、勉強熱心なアーティストがもっといろんなことを勉強する、という、そのぐらいのものだと思ってますけどね。
桂:でもね、そこには、オルタナティブって意味で重要だと思う
。アカデミックはいわゆるサイエンスのディスプリン(修業法)でできている。論文を書いてインパクトファクターの点数が業績になり、就職の道になったりとか、ある種の規範になってる。ところがアカデミックってそれだけじゃなく、特に人文系とか歴史とか、世界をどう考えるかということでいうと、規範だけではなかなか難しいと思う。今どんどん人文系も科学のディスプリンに寄っていっちゃってるんです。唯一芸術系だけが荒唐無稽なPhDを出すことができて、ひょっとするとこれが学術組織の中でオルタナティブになりえるかな
と思って。僕ここ10年ぐらいロンドンやウィーンやコロンビアやいろんな国の大学の人からヒアリングされるんですよ。そこで必ず、あらゆるところが科学的なディスプリンになってる中で、芸術博士は研究とか方法も含めて唯一のPhDなので、オルタナティブとしてそれ相応の役割がある
、と答えてきています。
川俣:だから将来的にはPhDは自分で決めるんじゃないかなと思う。
「あぁ私はそろそろ博士と呼んでもいいところに来てるな」と。それはそれで面白いよね。選ばれるなじゃなくて自分でなる、みたいな。
桂:今事実上それに近いんですよ、僕ら映像研究科であげてる博士号も(笑)。だってみんな外国に行ったあとに、「僕そろそろ大学院出ますけど」みたいな感じで帰ってくるんです。まぁそういう意味では博士ってのは一つの役割はあるかなと思っています。
6-3:美術館に何を期待していますか?大学がこれから何をできるか?
質問者:今の日本は中高年も含めて引きこもりが61万人、自殺者が30万人弱。学校に行かない子どもたちも多い。GDP世界第3位の経済大国と言われるけど、個々の人々が「幸せか」と聞かれると「幸せじゃない」というパーセンテージが多いわけですよね。美術館がどうあるべきかと考えざるを得ない。美術館も社会教育施設なわけですよね。
AI化で社会が激変する中で、美術館の役割は学校とは違うかなと思っています。ほとんどの人は展覧会にはたくさんくるけれど、美術館がどういうものかを正確にわかっていない。伝えるべきことは、「考える場である」ということと「メディアリテラシー」。世界を読み解く術を気づいてもらうということかなという風に思っているんです。芸大の先生としては美術館に何を期待するか、同時に学校がこれから何をすることが可能かと考えているかを教えていただければ。
桂:「死にたくなったら図書館に」という例を出しましたが、これは30年前から言われているテーゼ。同じように「死にたくなったら美術館へ」ということが言えるかどうかが美術館を考えるきっかけになると思うんですよね。図書館の場合は、本があるし、本について教えてくれる人がいる。ユーザーもセルフエデュケーションのチャンスになる。「チャンスがある」ということが「死にたくなったら行く図書館」というのを支えてるかもしれない。だから「死にたくなったら行く美術館」がどういうものか?を考えることが、一番わかりやすく議論できるテーマかなと思います
。
大学と美術館の話でいうと、アートワールドの3極として、人を出す「大学」と、人のいる「市場」と、コレクションされる「美術館」という、美術館が今までのある種のゴールとして捕らえられていたのが、今は違う局面にきているのかなという気がする。それが何なのかはわかんないですけど。ゴールではなく中間的な役割を美術館が果たしていくとすれば「教育普及」の役割を大きく変えていくというような。
鑑賞者教育がとにかく学校に欠けていることなので、ぼくら大学は作家を育てる側にいながら鑑賞者の教育もやっている。中学や高校でやって来なかったから読み手でもない人がいたりして、そこからの底上げもしなくてはならなくなってる。受容者研究、受容者を育てることは、美術館にも重要な役割があるような気がします。
川俣:僕はあまり美術館に行かないんですよ。行くと作品をいろいろ見て仕事になっちゃって「こういう風に思って作家やってるんだろうな」とか思ったりして、ゆっくり見れない。非常にいい鑑賞者は非常にいいアーティストになり得て、逆はないと僕は思う。
美術館には僕にはジレンマがある。変わった方がいいところと、変わらなくていいところがあって。意外なんだけどぼくの子供達は美術館によく行くんですよ。「ゴッホのあれだけ見にいく」とか言って、一点主義で見に行くんですよ。「あそこに行けば何かある」とはっきりしてるのは、美術館施設の役割として安心するなぁと。あの作品をずっと見続けていたいとか、精神的な潤いとか言うんだろうけど、パーマネントコレクション(常設展)は、とにかく絶対あって、誰がいつ行っても壁の隅にはあの作品がある、というのはあったらいい。けどそれだけだと博物館になるからそうじゃない何かも必要と思う。
そんなに変わることに焦らなくてもいいかなと。美術館は美術館で良いと思うんですよ。
美術館にいろんな役割を持たせるという考え方もがあるが、僕は保守的でいいと思う、そうしないと僕らの役割がなくなる。美術館ってもっと頑固で保守的で…というか、「絶対曲げません」とか、頑固な人がいなくなったんですよ(笑)
どこかで頑固な存在 40年間石を集めた人の映画(ファクターシュバル、郵便配達夫)が出たと思うんだけど、あの人異常な人だと思うんだけど、僕あんな人になりたいなと思ったの。とにかく一途。石が僕を見つけてくれたって彼はいうのね。郵便配達しながら。アーティストの根源ってそうだなと思うし、そういう社会って面白いと思うんだよね。全然認められてなかったと思うけど今は観光客がいっぱい来るんだよね。
桂:最後に。今回いろんな反響があったので、脱教育というテーマについて意を強くしたというのと。もう一つは、今、いろんなことを早く答えを出そうとしすぎているというのがあると思う
。あいちトリエンナーレでも、すぐ態度、立場を表明しなきゃいけないとか。ちょっとね、もう少しゆっくり考えようよって気もしてます。《「ワールド・スタディーズ」と「脱学校」のための教育賢人会議 》は「落ち着いて考えようよ」という提案でもあります。一回ごとスポンサーを変えながらフレキシブルにやっていきたいと思います。臨床トークもまた別の機会でテーマがあればやりたいと思います。皆さん、今日は長時間ありがとうございました。
(終わり)
レポート:坂井 理笑
似顔絵:栗田 朋恵